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2010.03.17

きよしとキヨシ“違いがわかる男”と“早すぎた求道者”それぞれのモダニズム(THE END)

― モダニズムの中でのふたり ―

モダニズム運動が勃発したのは1920年代、その後の展開の中でモダニズムは
ミース、グロピウス、コルビュジェらが中心となる「普遍性追求」のスタイルに収斂
していく。
これが近代建築史の通説と言え、社会主義思想とインターナショナルスタイルが
それにあたる。この「普遍性追求」スタイルがキヨシにとってのモダニズムであった。
一方、きよしのモダニズムとは世界的に見れば、へーリング、シャローン、
アスプルンド、アアルトに代表される「地域性追及」スタイルと同等と見ることもできる。
前者を普遍的モダニズム、後者を有機的モダニズムと捉える事もできるのだろう。
近代建築史の上でこのふたつの潮流は決して対立したわけでなく、互いに相補的な
関係にあったと考えたほうが妥当のように感じる。モダニズムはイズムである限り
イデオロギーであるはずが、建築におけるモダニズムはスタイルで語られるよう
になり、そこに矛盾が生じたのです。

産業の時代20世紀のニーズにうまく乗り、支配的であったのは普遍的モダニズム
と言え、有機的モダニズムは単一のスタイルや思想を追求することなく個々の建築
の特殊性や地域性を追及した結果としてのモダニズムであり、一連性をもった潮流
として捉えにくい部分があったにすぎないと言えます。21世紀を迎えた現在、
振り返ってみるとまた違った見解も見えてくるのです。

ふたりのKIYOSHIはひとつの世界にどっぷりと漬かることなく、ある境界線の上に
立って物事を捉えていたんだと思います。芸術と技術、美学と工学、デザインとアート、
大学人と創作者、建築家と教育者、作品主義と実験主義、アーキテクチャーと
ビルディングエンジニアなどなど。
真実を捉えて発信し続けるには境界線の上に居る事が重要であるということを
近年では、内藤廣氏が説いています。複眼思考の重要性、既成観念に埋没する
ことなくいろんな角度からあらゆる光を当てて見えてくるものがあるようです。
それはまた日本人の持つ風土性、感性でもあります。
ふたりのKIYOSHIが遺して行ったものの中にそのような“日本的なもの”が存在
するように感じるのです。 

― エロスとタナトス ―

きよしの手法、建築に対する姿勢は工学や科学的なことに関心を示しつつも
基本的には、感性的なところが多かった。「つくりながら考える」「いいかげんがよい
加減」「ケセラセラ」がきよしのモットーであり、遊び心が垣間見える手作り感覚の
建築でした。決してユートピアを夢想せずに、時の流れのように移ろいゆくことが彼に
とっての世界の本質だったのですね。このような時間軸を据えた建築の成り立ちを
見ていくと、私たちが慌ただしく置いてきてしまった過去の意味やものづくりの原点を
改めて認識させられます。

一方、キヨシは純粋無垢であるが故、未来に希望を抱き一途に突き進んだのです。
性急に科学と建築設計を接合させ、機能を科学的プロセスにより計画的に翻訳する
道を追及しようとしたわけです。キヨシが傾倒したコルビュジェも同じ手法を主張
しましたが、世の中とはそのほとんどがグレーゾーンであり、社会主義が瓦解して
いくようにその道がいかに困難であるかを感じ、やがては距離を置くようになりました。
しかしキヨシはその陥穽に滑り落ちてしまいました。早くして逝去した彼には現在の
世の中と自身の思い描いた未来との齟齬にきっと歯軋りしていると思います。

藤森氏のように野球に喩えてみると、バッターの裏をかきながら惑わし、見方ですら
翻弄する老獪なキャチャーと常に真っ向勝負で直球を投げ続けたエース。
逃げ場のないオンオフの二者選択を苦手としたきよしに対してキヨシは常に白黒
つけようとしました。あるいは天真爛漫で野球は人生そのものと愉しんだ長嶋茂雄を
きよし、いまだ己の野球道を突き詰める求道者・王貞治をキヨシと喩えてみては
どうですか。

いろんな事に対し周りを煙に巻いてきたきよしに対してキヨシは実直に対峙しなければ
気がすまないセンシティブな性格であったはずです。親交のあったふたりは互いに
意識し、影響もしあったしょうが、2つ年下のキヨシはことのほかきよしを意識した
様に思えます。

二項対立的に“きよし”清家清と“キヨシ”池辺陽を比較検証してみましたが、こういう
論調には抜け落ちる部分があったり重なり合い対立させることのできない部分が
あったりすることは覚悟の上、それでもこのふたりを左右に据えてその軸線上に
見えてくるものに興味をそそられるのです。きよしはエロスでありパトス、キヨシは
タナトスでありロゴスなのです。

立体最小限住居               池辺陽の代表作「立体最小限住居」

結び

モダニズム建築はその試行錯誤の過程において、日本の伝統建築のエッセンスを
重要な要素にしている事は明らかであり、装飾を取り払い流動的で透明性の高い
平面の成立に日本の伝統建築は模範を既に示していました。1893年のシカゴ万博に
於いて、日本政府は平等院鳳凰堂を模した全体構成の中に寝殿造り、書院造り、
茶室から成るインテリアの鳳凰殿を提示しました。欧米の壁に閉ざされた建築とは
違った構造原理を知り、以後欧米の歴史主義を打ち破りたかった建築家たちは
日本建築に多くを学び、内から外へと緩やかに繋がる平面と水平に伸びる大きな
開口部を持つおおらかな外観を手に入れることになります。

このような伝統的な日本の建築空間が長い歴史の中で培われてきたことの要因は、
その風土性にあることはいうまでもないのです。その中にモダンが潜んでいると
真っ先に読み解いたのはアントニン・レーモンドであり、日本の風土、気候条件を
取り入れつつモダニズムを拡大し洗練させていったのです。

吉村順三は伝統的なものや歴史的なものを踏まえた先に本当のモダンがある
と説き、日本人が古来資源を浪費することなく正直に建築を作ってきた時代が
再び戻ってくると予言していました。

産業と工業化の世紀だった20世紀のモダニズム建築が示した高い理想と豊かな
精神、その原初性は時が流れた21世紀、この環境共棲の世紀に当てはめて
近代建築を問い直すのであれば、環境と風土に根ざしたエコロジカルな空間を
創造することが最重要であると思います。そして20世紀モダニズムが基本的に
ネグレクトした時間と場所の概念を胚胎する空間を創造する事が反省点として
浮かび上がってきます。

20世紀半ばにして、清家や池辺の多くの言説は現在のウィークポイントを的確に
捉えていました。モダンというものは「虚飾がないということ」と生前、清家は
述べています。池辺はあまりにも性急に生き急ぎましたが、20年時代が早かったら、
あるいは20年あとの世代だったら追い求めた真理をもう少し具現化できたのかも
知れません。(生きていれば老齢期にポストモダンやバブルの時代をいかに
捌いたかに興味をそそるのです)

住まい方、暮らし様の実質よりも容れ物として建築そのものの見かけの価値を
重視するところに「虚飾」は生まれます。モダニズムの精神は本来そういうものでなく、
だからこそ“日本的なもの”の本質とも共存できたのです。
本物か虚飾かを見極めるには視・聴・嗅・味・触の五感を含めたイマジネーション
豊かに切り開いていかなくてはなりません。
ふたりのKIYOSHIが遺した作品や文章をいま見つめ直してみるとそう感じるのです。

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