一泊二日で岡山の古い町並みや名建築を巡ろうという吉備路巡礼の旅もいよいよ
大詰め。最後の訪問地である備中高梁へ向かいます!
城下町・高梁は臥牛山の裾野、高梁川に沿って広がる瀟洒な小さい町。吉備の
小京都と言われ国宝・備中松山城とその城下町で構成されます。武家地は山手の
石火屋地区、町人地は下の紺屋川地区に分かれているのが特徴。
武家屋敷の町並みは漆喰の白壁、なまこ壁の蔵や長屋門、土塀が続き、江戸時代の
面影を色濃く残しており、岡山県のふるさと村の指定を受けています。
石火屋地区の町並み
武家屋敷に見られる、外の様子を伺うために設けられた武者窓
紺屋川美観地区
小さなせせらぎの紺屋川沿いは桜と柳の並木が美しい美観地区で、日本の道
100選にも選ばれているのです。商売繁盛の神として祀られている小社・恵比寿宮、
格子や白壁の風情ある建築物、昔風の商店・・・なつかしい時間がゆっくりと流れて
いるような景観です。
高梁基督教会堂
西洋建築棟梁・吉田伊平の設計により明治22年に建築された現存する岡山最古の
教会堂で、県重要文化財に指定されています。高梁地方のキリスト教は西洋文明、
自由民権運動と共に明治12年頃、維新後の苦境からの脱皮と近代化を目指す
人々によって導入・伝道が始まったらしい。
教会の創立はは明治15年。教育、医療などの分野に多大な影響を与えたましたが、
同時に投石などの迫害も経験し、現在も当時の迫害石が残されています。
頼久寺とその庭園
高梁市街の東山麓にはずらりと寺院が並んでいる。そこには堂々とした石垣が積まれ、
巨大な寺院はまるで城砦を思わせる景観です。頼久寺もそのうちで足利尊氏が
諸国に命じて建立させた安国寺のひとつ。
境内の庭園(国指定名勝)は、備中国奉行・小堀遠州の初期の作庭(1605年頃)で
禅院式枯山水蓬莱庭園。俗に「鶴亀の庭」と呼ばれていて、遥かに望む愛宕山を
取り入れた借景、鶴島、亀島の妙を極めた石組み、海洋を表す砂の波紋、大海の波を
表現したサツキの大刈込・・・ 遠州の「綺麗さび」の世界を見事に映し出しています。
<→ 頼久寺に関してはこちらもどうぞ!>
高梁商家資料館(池上家)
古い商家の建ち並ぶ本町通りでひときわ目を引くのが商家資料館となっている池上邸。
享保年間八代将軍吉宗の頃、この地で小間物屋を始め、その後、両替商、高瀬舟の
船主などを経て醤油製造で財をなした豪商なのです。
高梁市武家屋敷館
石火屋町の武家屋敷の町並みに残る旧折井家の邸宅。漆喰壁の建物は天保年間
(1830~1844)の建築で、母屋と長屋門からなる。中庭はほぼ往時のままである。
高梁市郷土資料館
木造2階建てのこの建物は旧高梁尋常高等小学校の本館で、明治37年の建築である。
備中松山城
市街地の北端にそびえ、「おしろやま」の愛称で市民に親しまれている臥牛山
(標高480m)。
北から「大松山」、「天神の丸」、「小松山」、「前山」の四つの峰からなり、南から望む
山容が草の上に伏した老牛の姿に似ているとしてこの名がついています。
国指定重要文化財の備中松山城はその頂を中心に山全域に及んでいる。
この城の歴史は古く、鎌倉時代に有漢郷の地頭に任ぜられた秋庭三郎重信により
臥牛山のうちの「大松山」に砦が築かれたことが始まり。 その後、城の縄張りは
時代とともに変化するが 臥牛山全域が一大要塞になっていたことは明らかである。
何度となく城主が変わり、明治維新を迎えることになるが、現存する天守などは
天和3年(1683年)に水谷勝宗(みずのやかつむね)により改修されたものと
伝えられています。
さて、こうやって1泊2日の吉備路の旅は訪問地を見学し終わって関西への
帰路につきます。駆け足での訪問は時間に余裕があまりないので、
ほんとうはもっとゆっくり、じっくりひとつひとつの町並み・建物を見て回りたい
ところですが、2日で閑谷~倉敷~吹屋~備中高梁と巡るのはこれが
精一杯!(ほんとうのところ備中松山城は見る時間がとれません。)
でも、季節を変え、一緒に行く仲間を変え、何度でも訪れたらいいと思います。
ではでは、次の旅路をお愉しみに!