『きよし』・・・芸術と工学の狭間で
◆在りし日の清家清
(注:上の写真は別冊新建築・日本現代建築家⑤清家清[㈱新建築社]の
挿入写真をスキャニングしたものです。)
清家[以後きよしと表記]は上野(東京美術学校・現東京藝術大学)と大岡山
(東京工業大学)で建築を学んだ人ですが、この2つの学府を卒えている
建築家は少ないと思います。きよしのプロフィールが紹介されるとき東京工大で
長く教鞭をとったこともあってか谷口吉郎の直弟子(*1)、東京工大出身で
プレハブや工業化に強い関心を示した建築家というイメージの方が強く見られて
いるように思うのです。
飄々としているように見える作風やユーモア溢れる言動の裏には東京工大と
いうアカデミズムの中で様々な研究やシミュレーションによりすでに確認済という
裏づけがあることは事実であり、清家研究室(*2)から林昌二、篠原一男、
山田雅子(後の林雅子)など次代を担う多くの建築家を輩出したこともあり、
清家=東京工大というイメージは強いと思うのです。
しかし東京美術学校に学んだ芸術肌の建築家としてその人となりと意味を少し
考えてみたいと思います。きよしの中にある美的感覚、画家になりたかった
少年時代のこと。そこから読み取るきよしにとってのモダニズムの今日的な
意味を問うてみる必要があるように感じるのです。
きよしが東京美校を卒業してからさらに東京工大に学ぶことになったことには、
父である正の影響が大きいといわれます。東京高等工業学校(現・東京工大)の
出身者であり工学者であった父の意向や家庭事情も手伝って美校卒業後に
東京工大へ進んでいるのです。しかし、きよし自身の胸のうちはその必要性は
感じていなかったのではないだろうか。少年時代から絵が得意で神戸第二中学
時代の図画教師の勧めもあって画家を志していた事実もあります。
同校の先輩に小磯良平、東山魁夷など名だたる画家たちが居たことも
刺激になっていたのであるでしょう。
しかし、厳格な工学者の父にしてみれば清家家の跡とりとしてのきよしに、
それは許しがたかったといいます。(*3)その後のきよしの仕事、特に初期の
一連の小住宅に垣間見るその眼差しはまさしく東京美校で培った建築への
ストレートな精神が感じ取れるのです。
初期の住宅建築は質の高いモダニズムの本質に裏打ちされた傑作であり、
ヒューマンなスケール感と緻密な寸法設定、素材感が結びついた結晶です。
きよしの作品の多くは工学的な関心事に支えられており、プレファブ、鉄や
コンクリートブロック、木毛セメント板など工業製品を多用したこともその表れで
あるように思います。
そのような発想の元にはエンジニアで合理性を重視した父の影響があり
「工学」そのものを身近に感じる環境下で育ったことが影響しているのだろう
ことが伺えます。しかし、そのデザインの本懐は生活の質、快適性の追及を
もって成立しており、生活への眼差しが体現された自然と共に成長し続ける
住まいなのです。
丹下健三を筆頭にした国家建築家とは意識してか無意識かは判らないけれど、
計らずとも距離を置きながら、市井の建築家としてその価値観を見出していた
ように感じられてならないのです。モダニストとしてのきよしはやはり東京美校に
学んだ影響が色濃く見え隠れするのです。
では東京美校(藝大)のモダニズムとは一体なんでしょうか。藝大に於ける
設計教育は岡田信一郎の指導体制と水谷武彦、山脇巌のバウハウス留学が
大きな影響を与えており、古典主義ではなくモダニズムに対する素直な傾倒が
当時の他大学より先んじていたと言われています。
彼らがその後の教え子である吉村順三らに与えた影響は大きいでしょう。(*4)
岡倉天心による東京美校設立の目的は日本の伝統美術、工芸を復興させる
ことが第一義であったので、藝大の建築教育には当初から日本の伝統古典建築に
学ぶ講義が多かったと言われています。吉村が学生だった頃は京都や奈良の
古建築実測も授業にあり伝統木造との密接な関係が培われました。
美校・藝大の卒業生に吉田五十八や吉村順三に代表されるように住宅建築に
軸足を置き木造建築に通底している建築家が多いのはその影響であると
考えられるでしょう。
きよしにおいては、美校で岡田捷五郎、水谷武彦らに師事したといいます。
バウハウスに直接繋がる水谷に受けた影響がいかなるものであったかは計り
知れませんが、その後のきよしの作品を見てグロピウスが高く評価するという、
そこにバウハウスの流れが連綿と続いているのは明らかであるように感じます。
新たな視点で生活を見つめ、家具から建築、都市まで再構成して統合することを
目指したバウハウスの教育方針が藝大建築のエッセンスとなっており、きよしの
建築設計に通奏低音のように流れているのだと思います。(*5)
きよしは機能的小住宅の定型とも言うべき公私室型の住宅に対し、ワンルーム
による「広くすまい、時に応じてしつらえる」生活を提案しながら住宅を作りました。
これらは寝殿造りに見られるような伝統的な住まい方である鋪設(しつらえ)の
考え方を導入したものであり、伝統と近代の問題に一石を投じたわけです。
そして「架構」と「舗設」の分離を明確にし、そこに住まう家族の生活への配慮を
最大の課題としています。舗設による多様な生活シーンへの対応という手法は、
きよしの「家族」概念への信頼の現われのように思われるのです。
「身のまわりのスケールから空間を構築していく」という初期モダニズムの持つ
ヒューマニズムに近い感覚がそこに潜んでいるのですが、決して欧米モダニズムの
コピーではなく、日本建築としてのモダンを清々しく表現していたのです。
「伝統を守りながらも既成概念を破り、いったんはそこから離れても本を忘るな」
とは千利休が残した『守破離』の精神ですが、きよしが茶道に明るかったのかは
定かではないのですが、茶の湯の要諦は心の開放にあります。
どこかで清家の軽妙でウィットな生き様や遊び心に溢れる建築スタイルと
通じるところがあるように思えてなりません。
- 続く -
*印の内容について補足をブログ「普通の家 普通の暮らしを求めて」に
記していますので、そちらも併せてご覧ください!
→→→“きよし”と“キヨシ”を読み解くヒント(その2)