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2011.03.20

近代庭園の先覚者・七代目植治と無鄰菴庭園

無鄰菴は、明治27年から29年(1894~1896)にかけて明治大正の元老・山県有朋が
京都東山に造営した別荘です。無鄰菴という名前は、有朋が長州(山口県)に建てた
草庵が隣家の無い閑静な場所であったことから名付けられたと言われています。
ここは日露戦争開戦について当時の政友会総裁・伊藤博文、外務大臣・小村寿太郎、
総理大臣・桂太郎、そして元老・山形有朋の四人が密儀をこらしたという無鄰菴会議の
舞台としても知られています。細長い三角形をした1000坪を超える広大な敷地の
大半を占める庭園は、有朋自らの設計監理により、造園家・小川治兵衛(七代目・
植治)が作庭したものです。ゆるやかに傾斜した敷地の一番奥に、東山の山々が
借景として望むことができるようになっています。

無鄰菴庭園・洋館への通路から和館越しに庭を望む
高低差があることと、奥に行くほど敷地が狭小であることが、より一層遠近感が
強調された造景になっているのです。疏水の水を引き入れ、三段の滝、池、芝生を
配した庭の形式は池泉回遊式庭園ですが、ぐっとモダンな設えになっています。
水が下の池に注ぐ途中の流れの中に「沢飛び」と呼ばれる飛び石が配され、歩いて
横切る事ができます。上の池から下の池には小さな滝状に水を落とす「瀬落ち」があり、
さらにその下流にある「瀬落ち」を下って、再び流れを形成する構成になっています。
庭の骨格を形成しているのは巧みに配された大小さまざまな大量の石である。
琵琶湖疏水の水運を利用して、琵琶湖沿岸から産出する守山石を大量に京都へ
運び入れ存分に使いこなしています。

無鄰菴庭園・庭の向こうに東山を借景として取り入れる
無鄰菴門無鄰菴庭園・庭園の奥から池越しに和館の方を望む無鄰菴庭園・印象的な三段の滝
石に対する愛着が人一倍強かったと言われる植治の真骨頂でしょう。石と水でありと
あらゆる魅力的な表情を演出しており、「流れ蹲踞」なる洒落た意匠も生み出している。
それまでの大名庭園は封建制度を象徴する様式でしたが、この庭は明らかに一線を
画し、山形有朋が望んだ等身大でありのままの自然の最も美しいと考えられる様々な
局面を引き出して造景されています。

無鄰菴の和館・瀟洒な木造2階建て緑のスクリーン越しに無鄰菴和館を望む
さて無鄰庵には、簡素な木造2階建ての和風母屋と藪内家燕庵を模して造られた
茶室、そして煉瓦造り2階建ての洋館の三つの建築物が建っています。
先に記した無鄰菴会議はこの洋館で行われましたが、山県自身が「蔵」と称したと
いうほど防御的な堅牢な建築です。時の実力者、暗殺を恐れた造りと佇まいです。
室内には江戸時代初期の狩野派による金碧花鳥図障壁画で飾られた部屋があり、
今日でもこの部屋には、花鳥文様の格天井、椅子、テーブルなどの家具が残り、
当時の趣を伝えています。

無鄰菴の洋館・前の道路から望む(堅牢な煉瓦造)無鄰菴洋館内部・煉瓦積み現しの内装に開口部には鉄格子
山県有朋はこの別荘をこよなく愛し、忙しい時期も夫人を伴ってしばしば訪れたと
いいます。有朋は大正11年(1922年)に自らが手掛けた邸宅・古稀庵で没しますが、
その後、無鄰庵は昭和16年(1941年)に京都市に寄贈される事になります。
その10年後には、庭園が明治時代の名庭として、国の「名勝」に指定されました。

山県有朋と小川治兵衛、この近代日本庭園のふたりの巨匠の奇跡の邂逅がこの
名庭を生み出したわけですが、有朋はその後、「椿山荘(ちんざんそう)」や「新々亭
(さらさらてい)」、「古稀庵」などの邸宅を構えるものの、そのどれも小川治兵衛の
手による作庭はありません。植治は植治の庭園の目指し、有朋は有朋の庭づくりの
道を歩んだのです。
それぞれに近代庭園に大きな影響を残したふたりの最初で最後の出逢いが、
この京都南禅寺のほとり、無鄰菴庭園だったということになります。

七代目“植治”こと小川治兵衛とは誰か
明治から昭和初期にかけて京都に生きた、ひとりの庭師がいました。七代目・
小川治兵衛はその屋号から“植治”と呼ばれています。1860年に生まれ、18歳の
ときに、東山区三条通白川橋の小川家の養子となり、伝統的な造園修行を積む。
その後、30代半ばで山形有朋と出逢い、無鄰菴庭園の仕事を任され、革新的な
庭園の意匠を施し一世を風靡。一介の庭師から、今で言うところのランドスケープ
デザイナーへ、そして近代庭園プロデューサーとして地位を確立することになる
先覚者であった。平安神宮庭園、對龍山荘庭園、高台寺土井庭園、西園寺公望庭園、
碧雲荘庭園などの名庭を数々手掛け、その活動域は京都だけにとどまらず全国に
拡大していった。仕事の拡大に伴い、土地の選定から建築の配置や意匠計画を
含めた全体計画を行うようになり、職人のマネージメントから造園材料の流通手配、
果ては不動産業的な業務までこなしたといいます。

無鄰菴庭園
数多くの作庭を行ってきた小川治兵衛ですが、やはり植治の仕事の原点は彼が
世に知られる契機になった最初の大作である無鄰庵庭園であることに間違いは
ありません。日本の庭園史を紐解いていくと明治以降の近代において、無鄰庵は
雑木の庭の代表作といって過言ではないでしょう。近年の庭作りでは雑木の庭は
一般的になっており人気が高いが、その手法を確立したと言われる飯田十基も
小川治兵衛の影響を受け、そのエッセンスを受け継いでいると考えられます。
都市化した現代生活の中に、自然と呼応する暮らしの環境を再生しようというのは、
現代人の希望である。そのために必要とされるのは庭園の知恵と工夫なのです。
ここでいう庭園とは枯山水でも、銘木の庭でも大名庭園でもありません。植治が
つくったような雑木の自然の庭、山里と一体化した開かれた庭、富や権力から
解き放たれた自由な庭です。
植治の仕事から、暮らしの場を庭園として再生し、自然の恵みを愉しむ生活文化を
再構築することの重要性を私たちは学ぶべきでしょう。
無鄰菴庭園

 

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