吉備路巡礼の旅は備前の閑谷学校を経て、倉敷入り。
重要伝統的建築物群保存地区にも指定されている倉敷川畔美観地区は
鶴形山を背後に控えた倉敷川畔を中心としたごく一部の地域である。
下写真のように俯瞰で眺めてみると、その町の都市構造がよくわかる。
[「小高い場所に登り、眼下に広がる自分の世界をじっくり眺めたいという気持ちは、
人間の基本的な本能のひとつのようである。」クリストファー・アレグサンダーは
名著『パタン・ランゲージ』(fig.62 小高い場所 の項で)の中でこう述べている。
アーバン・テクスチャーという言葉があることを別の本で読んだけど、直訳すれば
「都市の材質」という意味。都市を上から俯瞰する形で見たときの材質のように見える
全体構成が、その都市の持っている様々な性質や要素を一発で教えてくれるという。
だから丘や山でも高い建物でも、とにかく高い所に登ってみればスケール、拡がり、
屋根形状や色合い、建物の分布などいろんな事が見えてくる。
だから高い所に登りましょうという訳だ。 と以前、
ブログ(普通の家普通の暮らしを求めて)にも書いた。]
甍の家並みの中で大原美術館、有隣荘、アイビースクエアなど一目で判断できる
建築の様子が伺えます。
江戸時代、倉敷は天領地でした。大坂冬の陣の際、小堀遠州が徳川側に大量の
兵糧米を送り、その功績を認められたのである。以後、幕府の保護や周辺の豊かな
農地や産物を背景に、物資の集積地として成長していったのです。
天領地になった後は代官が置かれ、商人は税金面など優遇されたため川畔は
以前にも増して活気を帯びることになったわけです。
さらに明治に入ると文明開化の花形産業であった紡績会社が設置され倉敷文化の
発展におおいに貢献することになります。モダンな洋風建築の美術館などが建ち、
周辺の蔵屋敷と呼応しながら独特な雰囲気の町並みを作り上げてきました。
明治後半、鉄道の開通に伴い商業の中心は川畔から駅前に移った。そのような
状況の中、大原氏ら商業・経済の実力者が中心となり、町並み保存の重要性に
着目して倉敷をドイツの歴史的都市ローデンブルグのようにするという願いから
保護活動が始まり、のちに行政・住民主体の取り組みへと移行していき、
昭和44年に倉敷川美観地区が制定されることになります。さらにその10年後には
国指定の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、現在に至っています。
美観地区には江戸時代から残る町屋や土蔵を改装していまも使い続けられている
建物が多くあります。ただ残すだけでなく、いかに生活と調和させるかが大きな
キーワードとなっており、生きた街であり続けています。
瀬戸内航路の港でもあった倉敷は、米、綿などを運ぶ船着場である倉敷川の
両岸には商家や蔵屋敷が建ち並んだ。明治になるとこれに紡績業が加わり、
洋風建築や大規模な紡績工場が建てられていったのです。
関西を出発し、午前中に閑谷学校を見学して倉敷入りするとちょうどお昼時。
観光地・倉敷には美味しいレストラン他美味いもの処はたくさんあるけれど、お勧めの
ひとつが「八間蔵」。重要文化財である大橋家住宅の米蔵を改修再生したレストラン
である。町並み散策の前にここでフレンチ料理に舌鼓ということにします。
名前の示すとおり桁行が八間の蔵なのです。太い梁組の内部は米蔵として使われて
いた当時の面影を残しながら洒落た仏蘭西料理店へと変身しています。
そして倉敷といえば大原美術館ですね。
倉敷紡績の社長、大原孫三郎は親友・児島虎次郎の熱意を受け、西洋名画の収集を
全面的にバックアップしました。虎次郎の死後、その情熱に応え孫三郎が日本初の
西洋近代美術館として建設したのが大原美術館です。
エル・グレコ、ロートレック、ゴーギャンなどの絵画、ロダンの彫刻など多くの名作を
収集している。
ギリシャ神殿風の本館を中心に分館、東洋館、陶器館などが開設され多くの観光客に
親しまれています。
倉敷川にかかる橋の上からアプローチするとアイストップになる位置にファサードを向ける
大原美術館の本館はやや角度が振れている事で奥行き感が一層引き立っています。
さて、吉備路巡礼の旅・初日の午後はこうして倉敷の旧い町並みを巡る訳ですが、
半日くらいではとてもとてもじっくり見れるものではありません。しかし、そこはまた
季節を変え、目的を変え、何度も訪れたら良いのだと思うのです。
きっと眼に映る景色も、感じ方も少しずつ変わっていくことでしょう。
夕暮れ時にはぜひ、町並みを俯瞰で眺められる鶴形山に登ってください。
阿智神社にお参りして2日目の旅程も無事進行できるように・・・
そしてオレンジ色の夕陽を眺めて、今夜の宿へ向かいます。
さて、倉敷ではどこに宿泊するか。
観光地・倉敷には多くのホテル、旅館がありますが、地元が生んだ偉大な
建築家・浦辺鎮太郎氏(故人)が改築設計した「旅館くらしき」が実は一番のお勧め。
美観地区内に建つ老舗・河原宇平砂糖問屋の築300年を超える米蔵・砂糖蔵などを
昭和32年に改築し開業した名旅館です。
でも、この建築巡礼ツアーでは残念ながらこの旅館は外観のみの見学で宿泊は
しません。何故か?ちょっとお値段が高いから・・・
しかし、気を落とす事はありませぬゾ!すぐ近くに同じ浦辺氏が改築設計をされて、
蘇った建物があります。その名は「倉敷アイビースクエア」。もとは赤レンガの
紡績工場。今は比較的リーズナブルに泊まれるホテルになっています。
倉敷アイビースクエア正面玄関
アーチの足元は旧機械基礎の石を積み上げたもの。
倉敷アイビースクエア
建築家・浦辺鎮太郎氏は故郷倉敷をこよなく愛し、この地に腰を下ろし生涯数々の
名建築を創って来ました。倉敷市庁舎、倉敷市民会館、倉敷国際ホテル、倉敷中央
病院、旅館くらしきなど。このアイビースクエアの保存改修もそのひとつです。
元は倉紡の紡績工場。それをホテルに改修し現在に至っています。
建物の保存が決まった1970年代はまだ保存や再生の意識が低く、スクラップ&ビルドが当たり前のように行われていた時代です。
その次期にすでに、建築物の保存とは建物をただそのまま残すのではなく、
現代にどう活用して使っていくかが重要であるという理念に基づきこの改修保存は
行われました。
工場からホテルへとその用途は劇的にコンバートされたが、解体しない部分の
柱・梁などはそのまま利用され、撤去された部分からでた建材もそのほとんどが
再利用されている。「waste not! want not!」の精神が徹底して守られたのです。
倉敷という町とその歴史、文化、そこに建つ建築や住んでいる人の熱い想いに
支えられていたからこそ成しえた再生ではないでしょうか。
そうした想いは時を越えていまも受け継がれているように思えるのです。
旧工場の中央部1,400㎡の屋根を撤去してできたひろば
ひろばの水路につながり、アイビーで覆われたレンガの壁とあいまって豊かな空間を
構成している。
夜の帳が降りた中庭。暖かい灯りがこぼれる。この日は満月!
こうして巡礼の旅・初日は終了していきます。
さて、二日目は吹屋と備中高梁へと向かいますが、旅先の朝はとにかく早起きして
まだ寝静まった人影まばらな町並みを散策するのがGOODなのです。
(例え、前の晩にへべれけに酔っ払ったとしてもです。)
先の大原美術館の写真は翌朝早くに撮った写真ですが、日中だと(特に週末は)
人人人で建物や町並みの写真を撮影しようとしてもおっちゃんおばちゃんや
アベックなどフツーの観光客がじゃまになって仕方が無いですよね。
建築巡礼の旅は朝が“勝負”なのです。
次の街へ向かう前に倉敷の建築・町並みももう少しご紹介!
有隣荘
倉敷紡績の二代目社長・大原孫三郎が1928年に建てた別邸。
緑色に見える瓦をもつことから、「緑御殿」とも呼ばれてきた。
その瓦は、泉州堺の瓦職人に特別に焼かせたものだそうです。
民家の土蔵を再利用した倉敷考古館、独特な なまこ壁の側面を見せる。
大橋家住宅(国指定重要文化財)
江戸末期に金融業も営んだ豪商であり大地主。幕末には庄屋も勤めた。
町屋としては珍しく格式を持った長屋門を設けた広い屋敷。
倉敷市美術館(旧倉敷市庁舎)・設計/丹下健三
1960年に丹下健三の設計により建設された倉敷市市庁舎ですが、新庁舎建設に
伴い市立美術館として再生されています。
こうした旧い町並みが良く残っている
エリアは美観地区である川畔から、
少し離れた場所のほうが多い。
川畔はある意味、観光地となって
しまっているので、このような町並みの
ほうが生活感が感じられて生きた町と
しての息吹が感じられるのです。
ビクターの犬が屋根の上にいっぱい
乗っている家は“倉敷通”の人の間
では有名な屋敷のよう。
町屋の改修や建替えも向う三軒両隣り
とスケール感や軒高を合わせながら、
建築されています。素材感や色合いも
合わせて落ち着いた町並みとなる
ことでしょう。